Profile
ハワードジョイマン
繁盛店グループ総代表 / 店舗利益倍増アドバイザー
中小企業診断士 / コピーライター / 投資家 / 絵本作家
Positions
役職・肩書き
有限会社繁盛店研究所代表取締役
株式会社繁盛店研究出版代表取締役
株式会社日本中央投資会代表取締役
繁盛店グループ総代表
投資家企業買収と再生、成長
コピーライター店舗利益倍増アドバイザー
中小企業診断士経済産業省 登録番号 402345
絵本作家
Story
ジョイマンの歩み
1975年、静岡県清水市(現・静岡市清水区)生まれ。自営業の家に育ち、親戚一同も会社経営をしている環境の中で、小さい頃から受付台に立ち、商売というものを肌で学んでいく。
大学入学と同時にお笑い芸人としての活動を開始。活動中は、九州松早グループが運営するファミリーマートのCMにも出演。この時に培った「人を惹きつける話し方」「笑いの構造」は、のちのコンサルティング手法の原点となる。
急性膵炎による父の急死をきっかけに、大学卒業後は清水市役所に奉職。しかし「いつか自分も経営の世界へ」という想いは消えず、昼は市役所で働き、夜は中小企業診断士の受験勉強、週末は無給でイタリアンレストランの現場修行を続ける。6年間の試験勉強を経て、中小企業診断士の資格を取得。取得を契機に、7年目で市役所を退職する。
退職後、有限会社繁盛店研究所(旧:有限会社マーケット・クリエーション)を設立。しかしコンサルタントとして独立したものの、全く仕事がなく、日々思い悩む日々を送る。食欲もなくなり、心配になって病院を受診すると、医者から「体には問題ありませんが、商売はうまくいっていますか?」と言われ、帰り道に号泣。さらに、独立前にコツコツ貯めていた全財産が底をつく。
この経験から、店舗経営者にも同じように
資金繰りや集客で悩んでいる方が多いことに気づく。
こうした方たちの業績改善と
魅力ある店舗作りのサポートにまい進することを誓う。
お笑い芸人時代の経験から、小売店や飲食店、美容室、整体院の客数増加や店内販売活動に、お笑い芸人の思考法や行動スタイル、漫才の手法を取り入れることで、クライアントの業績が着実に向上。実績が積み上がるにつれて信奉者が増え、独自の繁盛店メソッド「笑人の繁盛術」を確立する。
発行するメールマガジンは、専門用語を使わない分かりやすさが好評で、読者からの業績アップ報告が絶えず、読者総数は1万人を超える。会員制コンサルティングサポート「増益繁盛クラブ」を運営し、人気テレビ番組「ガイアの夜明け」にも取り上げられるなど注目を浴びる。北海道から沖縄、さらにはアメリカからも参加者がいるなど、全国各地で多くの経営者が実践を続けている。
コンサルタントが購読する専門誌「企業診断」(同友館)からも、コンサルタント向けの連載を依頼されるなど、コンサルタントのコンサルタントとしても活躍中。また、投資家として企業買収による再生と成長基盤構築にも手腕を発揮している。
Episodes
ジョイマン物語
― 生い立ちの秘密に迫る ―
ハワード・ジョイマンとはどんな人間なのか? 気になるこれまでの生い立ちの秘密に迫ってみたいと思います。まずは、私が生まれた時の話です。
1975年3月20日 0時55分、5代目の長男として生まれました。体重は3,260g。下の写真は、まだ生まれて間もない頃の私です。
ぷくぷくとまん丸に太っていました。
私の家は、元々瓦屋を営んでいましたが、「これからは車社会になる」との考えから、私が生まれる前に駐車場業へ事業転換していました。母は、私が生まれる直前までお客さんの自動車に乗って車を動かしていたそうです。
私も、小さい頃から駐車場の受付に立って、お客さんがいらしたら「こんにちは」、帰る際は「ありがとうございました」と接してきました。誰に教えられることもなく、自然に商売を学べる環境がそこにはありました。
サービス精神旺盛な人間に育ったのも、こうした環境が影響しているのでしょうね。
私の家は、清水の中心部にあるので、清水の毎年の風物詩である「清水みなと祭り」や「七夕祭り」の開催場所が目の前なんですね。
そこで、毎年お祭りの時期になると、駐車場はお客さんの車で満車になるので、私の面倒を見るのが大変ということで、おばあちゃんに連れられて連日お祭りに参加していたんですね。
たぶん、みなと祭りの時期にやる町内のお神輿を担ぎに行く時の写真だと思います。かわいいでしょ(笑)
小さい頃から、お祭りが大好きではしゃいでいたんです。また、この頃は、ロボダッチというプラモデルが大好きでしたね。
小学校時代は、小学校2年生から6年生までサッカー少年団に入っていました。小学校を卒業する時までサッカー少年団に入っていると、金のサッカーボールが貰えるんですね。だから、最後までやりぬきましたよ。その時の金のサッカーボールは、今でも大事に部屋に飾ってありますよ。
前列の真ん中辺で、右足を出しているのが私です。小さい頃から、写真を撮るときは真ん中にポジションをとっていました(笑)
サッカーのポジションは、バック(今で言うディフェンダー)でした。基本的に、監督が足が速いのがフォワード、遅いのがバックと決めていました。私は、バックでしたが内心はフォワードがやりたかったんですよ。で、小学校5年生の時に、バックなのに点を決めてしまったのです。
今では、ディフェンダーが点を決めるのは当たり前になってきましたが、当時は前代未聞でしたからね。あの時の感触が今でもありますよ。本当に嬉しかったですね。
でも、基本的に清水はサッカーの激戦地ですから、弱いチームでした。負けると毎回グランドの周りを何十周も走らされましたね。でも、当時の監督の沢野先生が熱心に指導してくれて、だんだん強くなって小学校6年生の時には、上位4位まで行きましたよ。
エスパルスで活躍する伊東選手は同級生なので……(とは言っても話したことはありませんが)、大会のトーナメントなどで勝ち進むと当たるのですが、伊東選手は小学生の頃から体が完成されていて、小さい体の私からしたらゴール前の最後の砦のバックの僕ですら、よけてしまいました(笑)
また、小学校4年生になると今度は、男子はソフトボール、女子はポートボールに分かれて、地区別のトーナメントがあるんですね。私は巴町なのですが、6年生の時にショートで出場しまして、地区で優勝したんですよ。そして、市内の大会まで進んだんですけど、さすがに市内では負けてしまいましたね。
最前列の真ん中で左手にグラブをはめて、優勝商品のソフトボールを持っているのが私です。こちらも真ん中をすらっとポジション取りしていますね(笑)
小学生のときは、異性の意識がないからバレンタインデーはたくさん貰いましたね。でも、中学になったらパッタリなくなりました(笑)
ちなみに、私の初恋は小学校2年生の時に、1年生の女の子です。でも、一言も話せないうちに、仙台に転校してしまいました。でも、小学校4年生のみなと祭りの時に、一瞬だけ見かけたときは、すごく嬉しかったですね。
人間は、したことよりも、しなかった事の方が後悔しますね。
中学生になると地元の清水第二中学校へ進学しました。小学校は3クラスだったけど、中学は3つの小学校が一緒になるので、一気に11クラスになったんですね。だから、3年間で一度も会話をしなかった人の方が多いんですね。
私はというと、相変わらずお調子ものでしたよ。先生の物まねもやりましたけど、似てなかったなー。
中学では、幼馴染の大石君と一緒に軟式テニス部に入りまして、一緒にコンビで軟式テニスに打ち込みました。サッカー部も気にはなっていたんですが、不良が多いということでやめました。ええ、小心者です(笑)
軟式テニスは4番手だったんですね。3番手までが団体戦の試合に出れるので、団体戦では中々出番がなくて悔しかったんですけど、市内大会・東海大会を勝ち進んで県大会の時に、入れ替え戦で3番手に昇格して県大会に出場できたんですね。嬉しかったですね〜。
大石君とのコンビは、私は前衛で大石君が後衛なんですけど、プレー中に前衛と後衛が入れ替わるという珍しいコンビで、相手を撹乱するという独特のプレースタイルを持っていました。
また、クラスの合唱コンクールでは、1年生の時にカリンカのソロパートを担当したり、3年の時は指揮者をやったり、相変わらずのはしゃぎっぷりですね。でも、指揮は拍子がずれていると音楽の先生に怒られまくりでした(汗)
将来は、経営者を応援する歌を作って歌手デビューを考えているので、その音楽の先生を見返してやろうと思ってます(笑)
高校受験は、担任の興津先生が、自分の希望の清水東校を受験させてくれたので良かったです。他の先生の中には、不合格者を出すと自分の指導実績が悪くなるために、生徒の意見を聞き入れてくれない先生もいるのですが、興津先生は受験させてくれました。
私のクラスの生徒がちょうど清水東校の当落線上にいて、6人中4人が落ちてしまい、興津先生は翌年副担任にされちゃったそうですが、私から見たら興津先生ほどすばらしい先生は中々いないと思います。あの時受験できなかったら、一生後悔していたと思います。チャレンジさせてくれて本当に感謝です。
こうして、私は滑り止めで受験していた静岡学園高校に進学したのでした。
私が通った静岡学園高校は、サッカー選手の三浦知良さんやお兄さんの三浦泰年さんも通った学校で、サッカーでは全国大会で優勝するなどしていますので、知っている方もいるのではないでしょうか?
私は、最初に普通科に入り、2年の時に理数科に上がったのですが、この学校は日曜日も日曜テストという行事があって、あんまり休みが無いんです。進学熱心な親御さんにとっては教育熱心な学校ですけど、生徒からしたら休みもなくて大変でした。
その反動でしょうか? 元々お調子者で人を笑わすのが好きな私は、いつしかテレビで活躍したいと思うようになりました。そのためには東京に行かなければいけないと思い、東京の大学だけ受験するのを目標にして受験生活を送るようになったのです。
こうして私は、1993年、東京国分寺にある東京経済大学に進学することになったのです。
初めての東京生活は、これまでとは違う世界のようでした。今までは高校時代に電車通学をしていましたが、これはわずか2両の電車です。それが東京の中央線は15両もあるんですよね。あの時の驚きは今でも忘れません。そして、乗り遅れてもすぐに次の電車が来る。すごいことの連続です。
で、最初に戸惑ったのが女子高生のスカートの短さですよ(笑)。高校は校則が厳しく、スカートも長かったのですが、東京の女子高生は当時ミニスカートがはやっていたんでしょうね。典型的な地方出身者の行動ですよね。
大学ではサッカー愛好会に入りました。大会に出たときの写真。最前列右のキーパーユニフォームが私です。
しかし、それとは別に私の夢であるテレビに出るという目標達成のため、タレントとして芸能プロダクションに所属するためにはどうしたらいいのか? という研究が始まり、本屋に行ったら月刊デビューという本があることを知り、様々な事務所に履歴書を送り出したのです。
しかし、中々返事が来ない……。そこでまずはお笑いライブを見に行き、そこから糸口を探り出しました。渋谷LAMAMAでの新人コント大会を見に行き、「お笑いライブに出るためには、事前に行われるネタ見せ会に参加して合格したら参加できる」とのことが分かり、それ以後、様々なネタ見せ会に参加するようになったのです。
ネタ見せ会に参加し、お笑い芸人活動が始まった19歳の私。同じくお笑い芸人を目指している相手を見つけ、コンビを組み出しました。結局、3組組み替えをしまして、最後のコンビが「コンフィデンス」というコンビでした。
このコンビで、新浦安アーバン寄席や三軒茶屋や渋谷で開かれたライブ、コント松竹梅の松稔さんのプロデュースするライブに出させていただけるようになりました。こうして活動するうちに小山遊園地での営業に行ったり、オーディションを受けてCMに出演したりするようになったのです。
CMは、九州を地盤に事業展開している松早グループが当時フランチャイズで営業していたファミリーマートのCM。新人君というテーマで、コンビニの新人店員が様々なお客さんとやり取りをするもので、3パターン収録したのですが、その新人君を私がやらせていただきました。
当時は、週末は原宿が歩行者天国(ホコ天)になっていて、私は友人たちと原宿に来た方たちにネタをやっていました。実は、その僅か100m隣のクエストの前では、吉本興業に入る前のロンドンブーツ1号2号さんがネタをやっていたんですよね。今では、なぜロンブーが勝ち抜けて、自分は全然駄目だったのか分かります。距離的にはわずか100mの違いでも、見えない距離があったわけです。
テレビ東京でナインティナインさんが司会を務めていた「銀ブラ天国」の素人出演コーナーに出た時に、初めて岡村隆史さんを生で見たんですけど、明らかに違ったんです。「これがテレビで売れる人なんだと……」。感覚なんですけど、当時、今のままでは全然勝負にならないと思いましたね。
岡村さんは芸人。私は笑人。
仕事の内容は違います。
でも、人を笑顔に、そして幸せにすることは違わない。
ハワード・ジョイマン、
15年後の愛と笑いの宣戦布告です(笑)
家族には26歳までにレギュラー番組を1本持っていればそのまま続けて良いと言われていたのですが、芸能界で今の状況で勝ち残れるか考えたときに、無理だと思いました。そこで、お笑いは大好きだったんですけど、スパッとコンビを解消してお笑いもやめたんです。
正直な話、あの当時は逃げたんですよ。色々なテレビ番組を見ていても、「僕ならこの場面では、こう言ったのにな〜」とか色々考えたりしますからね。だからこそ、中小企業診断士試験は途中で逃げたくなかった。最後までやりきらないといけなかった。自分との勝負です。
お笑い芸人としての活動を止めた後、私は大学の目の前にあるパチンコ屋に連日入り浸っている生活になりました。目標がなくなり、これから自分はどうなるのだろうか? 周りは全て就職活動で就職先が見つかっていく……。そんな中で私は行く当てもなく、未来もなく、パチンコ屋が唯一の自分の居場所でした。
お笑いも商売も同じです。「滑った数だけ成功に近づく!」
目指していたお笑いをやめた後、目標がなくなった私は連日パチンコ屋に入り浸っていました。
あるパチンコ屋の新装開店に行くため、清水の家に帰省する日を1日ずらし、今日帰ろうと思っていた早朝4時30分すぎ……。当時、半同棲していた彼女の家で寝ていた時に友人から1本の電話がありました。
「お前の父さんが死んだよ……」
あまりの突然の知らせに「ドッキリ?(冗談だろう!)」と答えました。友人は「ドッキリで言うわけないだろ!」と。病気1つしたことの無かった父の突然の死を理解できませんでした。死因は急性膵炎。気分が悪くなってから24時間も経たないうちに父は亡くなりました。
「僕は何をやっているんだろう……」
父の元に向かう新幹線の中で涙をいくら流しても、もう遅い現実でした。
そして、父の葬儀も終わり、私の今後について母と祖母と話をしました。母と祖母は「清水に帰ってきて働いて欲しい。転勤のある会社だと駐車場もあるからやめて欲しい」との事で、私は、父が生前勤めていた清水市役所に奉職することに決めたのです。
父が死んでから2ヶ月ほど経ったある日、百一番のママさんから電話がありました。「しげちゃんのことが漫画になってるよ」。コンビニに走って買った週刊漫画ゴラク。そこには、谷村先生が当時執筆していた「パチプロ探偵ナナ」で、私の父の死に関するテーマで漫画になっていました。今でもこの漫画を持っていますが、谷村先生からの「頑張れよ」というエールだと思っています。
同級生は皆就職先が決まり、あとは卒業していく中で、
私は一人、目標を見失い先の見えなかった日々……。
その時に、父は自分の命をもって、
私を立ち直らせてくれたのだと思っています。
父の最期の部署は、清水駅周辺の再開発を担当する清水駅周辺再開発室の室長でした。街を元気にする仕事です。私は現在、中小企業診断士として全国各地の経営者の皆さんのサポートをしていますが、その根底には、ご縁のあった会社のサポートを通じて、その街が明るい元気な街になって欲しいという願いがあります。
昨年、10年ぶりに大学時代の愛する街、東京国分寺に行きました。毎日通っていたパチンコ屋は建物自体がなくなり、毎日通っていた中華百一番も無くなっていました。10年一昔と言いますが、本当ですね。街は全て変わりました。でも、あの頃の思い出は、今でも私の心の中で生き続けています。
父の死をきっかけに清水に戻り、お笑いの世界から一転して清水市役所で地方公務員として奉職しました。最初に配属された部署は環境保全課という部署で、奇しくも父が市役所奉職当時に配属されていた部署だったのです。
業務内容は、企業に対する騒音・振動の指導、排水対策指導から、市内の河川の水質保全業務。私は元々文系でしたので水質分析は苦手でした。ある日、BODという水質分析項目の検査の時に使う2液を、分析中に誤って口に入れてしまい、病院に緊急入院しました。実は、2液の中にはアジ化ナトリウムが入っていて、病院の医師からかなり怒られました(汗)
元々お笑い芸人で活動していた事を当時の課長が知り、私には環境を題材として漫才をするという環境漫才による環境啓発活動という別の任務も与えられました。私はコンビでやりたいと申し出て、岡村さんという同じ課の仲の良い先輩とコンビを組み、市内の各施設を回り環境漫才をやるようになったのです。
これが話題になり、ついには朝日新聞社から取材が来るなどしました。
こうして僕と岡村さんの環境漫才で、市役所に入って1年目にも関わらず全員に名前を知ってもらえました(笑)。すると結婚式に来てくれと言われるようになり、多くの結婚式で余興をやるようになってしまいました。
私がウェディングドレスを着た方で、岡村さんが赤のタイツを着た方です。結婚式でも大活躍(笑)
環境漫才は、岡村さんと私の伝説の仕事となりました。たぶん、日本全国の自治体を探しても私たちしかできない業務だと思います。これも当時の課長が、自分の長所を活かしてくれた例です。
さて、実際に市役所に勤めてみると、職場は3年ほどの周期で交代になり、目的としている職場で働けるかも分からない現実がありました。この時に存在を知ったのが中小企業診断士という資格でした。中小企業診断士とは、国が認める唯一の経営コンサルタントの国家資格です。こうして私は、全くのゼロから中小企業診断士の試験勉強を始めようと思ったのです。
こうして昼間は市役所で勤務し、家で中小企業診断士の勉強の日々が始まりました。ただ、市役所の職員でこのような勉強をする方はいないので、「周りからはなんでそんなことをするの?」と多くの方から言われました。しかし、こうした風当たりに負けていては到底目標は実現できないので、誰に言われようが何しようが、私の勉強は続いたのです。
しかし、なにせ経営の勉強などこれまでしたことも無かったので、最初は本を買って読んでも「販売促進」という言葉すら意味が分かりませんでした。さらに、中小企業白書という経済産業省が毎年出す本があり、最初の1ページ目を読むのができずに、それだけで1ヶ月以上過ぎるほどでした。
こうして本格的に勉強を始め、専門学校に通い受験対策コースを受講しました。しかし、さすがに最終合格率3%程度の超難関の国家試験だけあって、1年目は撃沈。2年目も別の学校に毎週末通い真剣に勉強しましたが、また不合格でした。
管財課(2001年)当時の写真。診断士試験の前に休みが取りやすい部署へ異動を申し込みました。
3年目は東京の学校に通いました。市役所での給料は、中小企業診断士の勉強と毎週末の往復の新幹線代金に消えていきました。折角東京へ通うので、学校帰りには人気のレストランやショップを色々見て回り、将来の参考にしていました。しかし、なんと3回目のチャレンジも駄目でした。
多くの受験生が3年目で諦めます。新しく勉強を始めた方が1年で合格するのも直面するので、かなりの方が腐り始めます。しかし、私は合格しなければ次に進めないので、しぶとく受験勉強を続けました。
実は、この時に試験制度の改正があり、規定により再度1次試験から受け直さなければいけなくなってしまったのです。4年目は心機一転、学校も変え、大学の大先輩である山根義信先生のクラスに通い出しました。様々な受験機関の模擬テストも全国トップ10に入ることもあり「今年こそは大丈夫だ!」と確信していたにも関わらず、結果は2次試験で不合格。
さすがにへこみました。そして、ちょうど市町村合併の関係で連日深夜11時頃までの残業が続き、受験勉強から遠ざかっていったのです。
中小企業診断士の4年目の時に、「なぜ落ちたのか?」を考え、実際のお店で働いて現場を知らなければいけないだろうと考えました。しかし、私は公務員ですから市役所以外で給与を得てはいけません。そこで、無給でどこかのお店で働かせてもらおうと思いました。
静岡市と清水市の中間くらいの場所で良さそうなイタリアンの店を見つけ、マネージャー(オーナー)に無給で働きたいと申し出たのです。返ってきた答えは「No」でした。そりゃそうです。今のご時世に無給で働かせて欲しいなどという人はいませんし、まして公務員でそんなことを言うやつはいないでしょう。後々マネージャーに当時の事を聞いたところ、「怪しいやつ」だと思ったそうです(笑)
こうして、断られては再度申し込み、断られては再度申し込んだところ、4回目で許可をいただき、毎週末の土日に無給で働かせていただけるようになりました。初めての皿洗い、調理補助などを通じて、中小企業診断士の知識だけでは学べない実感覚を学ぶことができました。
市役所5年目に市町村合併が実施され、清水市と静岡市が合併し、新たに静岡市が誕生しました。一番楽な部署で診断士の勉強時間を確保する予定が、一番時間拘束の長い部署になってしまい、診断士の勉強から遠ざかってしまっていました。
しかし、今思えば受験勉強から半年ほど遠ざかったことでリフレッシュできたことが良かったのです。ゴールデンウィークの時期から8月の1次試験まで集中することができました。昨年の1次試験が合格していたので、今年の2次試験に合格しなければ、さらに来年は1次試験から受け直さなければならない。もう後がなくなりました。
こうして背水の陣で5年目にして4回目の2次試験に挑み、ようやく中小企業診断士試験2次試験に合格することができました。
市役所でも自分で納得できる仕事をしなければなりません。業務改善提案表彰で銀賞をとったり、市有地の公売で自治体の世界では例がない「幸せな生活をするための賢い土地の選び方7つのポイント」の小冊子を作成し無料配布するなど、自分なりに納得できる仕事をやりました。
こうして6年目に正式に中小企業診断士の登録がされ、7年間の市役所生活に幕を閉じて、新たなスタートを切ることになったのです。
独立するにあたって、いきなり独立しても経営者の皆さんから依頼をいただくのは難しいだろうと思い、自分の武器を持たなければいけないと考えていました。市役所在職中から小冊子の作成による見込み客の確保など、事前に取り組みを開始。さらに家の駐車場でニュースレターの作成やメディア戦略を仕掛けて、新聞に掲載されたりテレビ局の取材を受けたりしました。
市役所を3月31日付で退職し、4月1日は駐車場の話題で新聞に掲載されるなど、市役所在職中から様々な仕掛けを実践して結果を出しました。
しかしながら、独立当初は自分が実際にやるのと商店の経営者の方に成果を出してもらうのは勝手が違い、苦労しました。様々なお店を歩いて回り、現場での販促を改めて徹底してリサーチするとともに、「消費者がどのように考え行動するのか?」という購買心理を徹底的に学びました。
こうした地道な活動を続けることで、笑人塾に参加される経営者の皆様から着実に評価していただけるようになりました。
お笑いを隠すんではなく、お笑い経験を活かす。
そして、本当の自分に気付いた。
一度は断念した「お笑い」。
そのお笑いが僕を救ってくれたんです。
私の人生の目標は、21世紀を代表する、地域のお客さんたちから愛される1,000人の経営者の成長支援を通じて、ずばり日本を笑顔で溢れる国にすることです。
私の父は、生前は清水市役所にて公務員として働き、清水駅前の再開発を行う清水駅前再開発室という部署にて室長をしておりました。清水の街が元気になるための業務を行っていたのです。
私は、父が道半ばでなしえなかった「清水の街を元気にする」という使命を受け継ぎ、笑人として魅力ある店を続々と出店し、清水の街を元気にして親子2代に渡る夢を実現したいと思います。
それと同時に、これからの時代に求められる笑人を全国各地に育成輩出することで、日本各地にその人ならではの魅力あるお店を誕生させ、日本中を笑顔で溢れる国にしたいと考えています。
これが私のこれまでです。
私がどんな人間なのか?
少しでも参考にしていただければ幸いです。
Private
ジョイマンの素顔
トライアスロン
2014年2月、テニアン島で開催されたターコイズブルー・トライアスロンにて初挑戦・完走を達成。肉体的な挑戦を通じて、ビジネスにも通じる「やり抜く力」を体現している。
マラソン
49歳からマラソンを始め、最初の静岡マラソンでは22キロ地点で制限時間により強制終了。しかしそこから諦めず練習を重ね、大井川マラソン2024で念願の初完走。さらに静岡マラソン2025、横浜マラソン2025と立て続けに完走を果たす。「最初はダメでも、続ければ必ずゴールできる」――経営と同じ哲学を、自らの足で証明し続けている。
キックボクシング
48歳からキックボクシングジムに通い始め、アマチュアの試合にも出場。結果は判定負けに終わったものの、以前から興味のあったキックボクシングで闘争本能が再び蘇った。年齢を言い訳にせず新しいことに挑み続ける姿勢は、まさにジョイマンそのもの。
大の旅行好き
国内・海外を問わず旅に出かけ、現地の空気を肌で感じるのが好き。そして何より、自身が運営する増益繁盛クラブに参加する店舗経営者を稼がせて自由な時間を増やしてもらい、一緒に旅行に行くのが一番の楽しみ。「仲間と一緒に遊べる経営」を自ら実践している。
家族を愛するマーケッター
どんなに仕事が忙しくても、毎月1回の先祖のお墓参りを欠かさない。家族を大切にし、経営者にも「家族との時間を取れる経営」を提唱する、その原点がここにある。
出身
1975年 静岡県清水市生まれ
(現:静岡市清水区)
自営業の家に育ち、親戚一同も会社を経営する商売人一族。
座右の銘
「100の知識より1つの実践」
「商品を売るな、悩みを解決せよ」
知っているだけでは何も変わらない。やることで変わる。
かつて全財産を失い、医者に商売の心配をされた男が、
今では全国の店舗経営者の利益を倍増させている。
「あの時の苦しみがあるから、
経営者の気持ちが本当にわかる」
だからこそ、専門用語を使わず、
すぐに実践できる方法だけを伝え続けている。
ハワードジョイマン
増益繁盛クラブ 主宰 / 繁盛店グループ総代表