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ジョイマンの部屋

ハワード・ジョイマン エピソード4 中学生日記

中学生になると地元の清水第二中学校へ進学しました。

小学校は、3クラスだったけど、中学は3つの小学校が一緒になるので、一気に11クラスになったんですね。だから、3年間で一度も会話をしなかった人の方が多いんですね。

私はというと、相変わらずお調子ものでしたよ。先生の物まねもやりましたけど、似てなかったなー。

中学では、幼馴染の大石君と一緒に軟式テニス部に入りまして、一緒にコンビで軟式テニスに打ち込みました。

サッカー部も気にはなっていたんですが、不良が多いと言うことで止めました。ええ、小心者です。笑

軟式テニスは、4番手だったんですね。3番手までが団体戦の試合に出れるので、団体戦では中々出番がなくて悔しかったんですけど、市内大会・東海大会を勝ち進んで県大会の時に、入れ替え戦で3番手に昇格して県大会に出場できたんですね。

嬉しかったですね~。

大石君とのコンビは、私は前衛で大石君が後衛なんですけど、プレー中に前衛と後衛が入れ替わるという珍しいコンビで、相手を撹乱するという独特のプレースタイルを持っていました。

また、クラスの合唱コンクールでは、1年生の時にカリンカのソロパートを担当したり、3年のときは、指揮者をやったり相変わらずのはしゃぎっぷりですね。

でも、指揮は拍子がずれていると音楽の先生の怒られまくりでした。汗

将来は、経営者を応援する歌を作って歌手でビューを考えているので、その音楽の先生を見返してやろうと思ってます。笑

高校受験は、担任の興津先生が、自分の希望の清水東校を受験させてくれたので良かったです。

他の先生の中には、不合格者を出すと自分の指導実績が悪くなるために、生徒の意見を聞き入れてくれない先生もいるのですが、興津先生は受験させてくれました。

私のクラスの生徒がちょうど清水東校の当落線上にいて、6人中4人が落ちてしまい、興津先生は翌年副担任にされちゃったそうですが、私から見たら興津先生ほどすばらしい先生は中々いないと思います。

あの時受験できなかったら、一生後悔していたと思います。チャレンジさせてくれて本当に感謝です。

こうして、私は滑り止めで受験していた静岡学園高校に進学したのでした。

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ハワードジョイマン

コピーライター/店舗利益最大化コンサルタント
中小企業診断士(経済産業省登録番号 402345)
絵本作家(構想・シナリオ担当)

・有限会社繁盛店研究所 代表取締役
・株式会社繁盛店研究出版 代表取締役
・繁盛店グループ総代表

1975年 静岡県清水市生まれ(現在:静岡市清水区)
自営業の家に生まれ、親戚一同も会社経営をしていることから、小さい頃より受付台にたち、商売を学ぶ。

大学入学と同時にお笑い芸人としての活動を経験。活動中は、九州松早グループの運営するファミリーマートのCMに出演。急性膵炎による父の急死により大学卒業後、清水市役所に奉職。

市役所在職中に中小企業診断士の取得を始める。昼間は市役所で働き、夜は診断士の受験勉強。そして、週末は現場経験を積むため無給でイタリアンレストランでの現場修行を経験。6年間の試験勉強を経て、中小企業診断士資格を取得。

取得を契機に7年目で市役所退職。退職後、有限会社繁盛店研究所(旧:有限会社マーケット・クリエーション)を設立。

お笑い芸人として活動していた経験から、小売店や飲食店、美容室、整体院の客数増加や店内販売活動に、お笑い芸人の思考法や行動スタイル、漫才の手法などを取り入れることで、クライアントの業績が着実に向上していく。

こうした実績を積み上がるに従い、信奉者が増える。独自の繁盛店メソッド「笑人の繁盛術」の考え方で、コンサルティングを行う。

発行するメールマガジンは、専門用語を使わない分かりやすい内容から、メルマガ読者からの業績アップ報告が多く、読者総数は1万人を超える。

会員制コンサルティングサポート「増益繁盛クラブ」を運営。人気テレビ番組ガイアの夜明けにも取り上げられるなど注目を浴びる。これまで北は北海道から南は沖縄、そして、アメリカからも参加する方がいるなど、多くの方が実践を続けている。

コンサルタントが購読する「企業診断」(同友館)からもコンサルタントに向けた連載を依頼されるなど、コンサルタントのコンサルタントとしても活躍中。

どんなに仕事が忙しくとも毎月1回の先祖のお墓参りを大事にしている。家族を愛するマーケッター。

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